川端康成のノーベル賞について考えてみた

やっぱり川端康成、嫁のこと大嫌いやったって。

最初の恋人、小柄で可愛い人。

その子の面影を三島由紀夫に感じたんやろ。

三島由紀夫は、太宰治の悪口を川端康成に滔々と語った。川端康成は三島由紀夫のためにいろんな推薦状を書いて道を作ってやった。
結果、三島由紀夫の天敵である太宰治は心中し、三島由紀夫の天下になった。

しかし、戦争で芥川賞が中断され候補にすらなれなかったという。
三島由紀夫には賞らしい賞はない。
三島由紀夫は右翼にはまっていく。

その中で回ってきたノーベル賞。
三島由紀夫は喉から手が出るほど欲しかった。
芥川賞を喉から手が出るほど欲しがった太宰治のように。

しかし、川端康成に譲ってほしいと三島由紀夫は頼まれた、と三島由紀夫の母は言った。
あなたは若いからまた今度もらいなさい。と川端康成に言われたのだと。
そして、もらった後、川端康成は、こんなものは当たりくじのようなものだ、と三島由紀夫にまで頼んでおきながら言ってるのはおかしい、と誰かが書いていた。

これらを川端康成に好意的に訳してみようと思う


太宰治を芥川賞から蹴落とした。川端康成は太宰治を落とす際に正当な理由が必要だった。太宰治はヤク中だった。

敗戦後、皇室の立場が変わったにもかかわらず、三島由紀夫は右翼にのめり込んだ。後に自決した三島由紀夫のことを佐藤首相は狂人だと言った。恐らく当時、川端康成もそう感じていたはずだ。

さて、ノーベル賞に話を戻す。

候補に上がってるのは、川端康成、三島由紀夫、谷崎潤一郎の3人。

谷崎潤一郎はちょっとエロすぎる。

三島由紀夫は右翼。

この二人のどちらかが受賞したら、日本は勘違いされる。

仕方ない。私がもらって場を和ませよう。

今度まわってくる20年後には三島由紀夫ももう少し大人になっているだろう。

しかし、気がかりなのは、こんな風に賞にしがみついている男は自殺しやすい、ということだ。
太宰治は死んだ。
同じように血の気の荒い三島由紀夫もそうなるかもしれない。
なだめなくては。

こんなものは、拾い物だから。
王様が金の玉を見つけても無視することだってある。
でも百姓なら拾うかもしれない。
その程度のことだから。
あんたのような王様は、そんな賞などなくても立派にやっていける。
こんな賞を拾った私は所詮しがない百姓ですから。

それよりも、戦争ごっこはもうやめなさい。
私がなんと言われているか知ってるでしょう?
私は葬式の名人と呼ばれている。
私ほど人が死ぬのを嫌う人間もいない。
いいか?三島由紀夫、あなたが芥川賞を逃したのは、人を殺し合う戦争のせいだ。
なのにどうして武力を欲しがるのだ。
それよりも、文章を書きなさい。
時代に飲み込まれてはいけない。
時代はずっと変化している。
今だけじゃない。
焦ることなどない。
源氏物語から今に至るまで文学が廃ったことなどないのだ。
次まで20年ある。
20年あれば、あなたのその陳腐な行いも忘れてもらえる。
だから、もうやめなさい。

いいか?ノーベル賞をもらったからといって、何にも変わらない。でも、欲しいならもらえる人間になりなさい。
私が今回もらうのは、谷崎潤一郎は死んでしまったし、欲しがる三島由紀夫がそぐわないからだけなのだ。

結果、この心優しいおじいさん川端康成の日本語は三島由紀夫には通じず、あの結果になった。

てことが垣間見える動画があるので見て。





もう必死になって、日本は、とか、海外は、とか、狂ったように持論を振り回す三島由紀夫が何かに洗脳されているようで見ていられない。

さらに目を覆いたくなるのは、歯が浮くようなおべっかなのだ。
これを見た人の中には、師を立てて偉い、と考える人もいるかもしれない。
だけど、思い返して欲しい。
この人たちは、日本最高峰の言葉の達人である。
私たち素人が見ても分かるような人の立て方は、はっきり言って言葉が下手くそなのだということを。
達人ならば、素人には分からないほどに自然に振る舞えなければならない。

それだけにとどまらず、彼はすぐ自分の話に持っていってしまう。
そして、結果、この番組で一番大きな声で、一番多くの言葉を発しているのが、脇役であるはずの三島由紀夫なのだ。
これは、川端康成を祝う番組であるはずである。

もう一人の伊藤整だってかなり話してるではないか、と思うのであれば、彼がインタビュアーであることを忘れてはならないし、彼が話しているのは、つい本音が出てしまう三島由紀夫の言葉のフォローに必死だからなのである。

それらの点においても、三島由紀夫はノーベル賞にそぐわないと感じてしまう。


これは好みだと思うし、三島由紀夫が好きな人もいると思う。

ただ、私に理解出来ないのは、三島由紀夫の考え方や価値観なのだ。

そこまで賞が欲しいなら、そこまで欲しかった太宰治の気持ちも少しは理解してやれ、ということ。散々悪口を言っておきながら、やっていることは太宰治と同じで賞にしがみついている。

自分だけ不幸かのように振る舞うのは違うと思う。自分だって相当の悪さをしてきたはずだ。

死ぬ時もそうだ。
そりゃ首相に狂人と呼ばれても仕方ない。
だって、そもそも、もっと以前に太宰治にも指摘されてたはずなのだ。
いまだに軍服を着てるのはおかしい、と。

川端康成は、三島由紀夫が死んだ時、もらった手紙から新聞の切り抜きから全て残しておくように女中に言った。

そして、学ぶべきことは、因果応報である、ということなのだ。

どんなに絢爛豪華な日本語を使おうと、中身が陳腐なら全く意味がない。
どんなに文章構成が幼稚でも、心を打つ言葉というのはある。

そういう意味では、川端康成という人は、恐らくどこを切っても美しいが少し寂しい金太郎飴のような文章だったのだろうと思うし、それが私たちが愛するこの国日本の美しい姿であるとも思う。

そして、彼はこの場においても言葉を選んだ。

この動画は三部作で、第二部、第三部と続く。
その中で少しずつ川端康成の本音が垣間見える。

彼はこう言いたい。

このノーベル賞は、私が書いた文章を読んだ人が選んだのではなく、私の文章を翻訳した方の文章を読んで選んでくださった。
つまり、私がその言葉を理解できない以上、私には何が書いてあるか分からない。
選ばれたくらいであるから、恐らくとても良いものである、ということだけは分かる。
だけど、それは果たして本当に私がもらって良いものか?
やはりここは私は辞退して、代わりに翻訳者がもらうべきではないのか?

はっきり言って、そんなあやふやな賞に、日本の文学賞のような価値が本当にあるのか?
それが世界の権威なら、世界の権威などたいしたことない。
それよりも、日本で正当に評価される方が私は嬉しい。
なぜそんな価値もないものにこのような大層豪華な権力が生まれるのか?
こんな意味のないもの要らんわ。

だからなおさら、私は川端康成がノーベル賞にふさわしい人であったように感じる。

そして、タイトルは忘れたが、ある本で読んだのだが、ノーベル賞の帰りの飛行機で一緒になった人が、川端康成を見つけて、隣の人に、あれが川端康成なのだ、と教えた。
その隣の人は、初めて本物を見て、あまりに小さく細く地味なお爺さんであることに驚き、人というものはつくづく見た目では分からないものなのだなあ、と思ったそうである。

まあ、カリスマ性というのは、あるからといって実力が伴うとは限らない、ということなのだろう。

そして、川端康成のような、毒のない人になる、というのは、簡単なようでとても難しいことなのだと痛感した。

きっと、目立つ方が簡単だ。
騒げば良いのだから。



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